親切は帰ってくる

自分が行った親切がこんなに心に響き返った事は無い。
電車で御老人に席を譲ったのだが、それはそれは喜ばれた。
もともと優しい人であったのか、それとも厳しい人であったかは分からないが、観音様の様な優しい笑みを浮かべておられた。

ほんの二駅の間ではあったのだが感謝の言葉をひたすら羅列され、ほめたたえられ、周りの目もあり、恥ずかしくむず痒い事限りなかったのだが、私はバスを降りてからというもの自宅までの道のり、なぜかずっと心地よく、すがすがしく、外は寒いはずなのに少しポカポカとしていた。
私は人に親切にされたのではない。
こんなにも親切にするということが自らを心地よくしてくれるとは思わず、今迄の行動を悔やむとともにこれからはもっと人に親切にしていこうと心に決めた。
そもそも親切はなぜ親を切ると書くのだろうか。
どうやら昔の中国語では「親」は親しい人、「切」は、刃物がじかに当たって肌身に応えるという意味で使われており、つまり、身近にいてぴったりとくっついている人と言う意味があったらしい。
さすがに今の日本語でいう所の親を切るではなかったが、日本語も奥深いものである。
親切にしても気持ちいい、されても気持ちいい。
されて気持ちがいいのはいつもしているからであるに違いないと思う。
いつも人に不親切な人は親切にされても心から喜べないと思う。
やはり一日一善ではないが、人に親切にするという事は帰ってくるのだなと思う。
まさに心がけるは一日一親切である。

雨人間のこと

私の周りには雨女や雨男が多い。
その人が出かけるときはいつも雨だ。
車を洗っても雨。
結婚式をしても雨。
その人が屋内にいるときは晴れていたのに、ちょっと外に出たら降りだして、また中に入ったらやむ。
そんな典型的な雨女・雨男が多い。

けれども、雨女、晴れ女とか、そんなものの考え方はおかしくはないだろうか。
だって、もし本当にその人が外に出ただけで天候が変わったら、それはまごうことなき超能力である。
世界的にみても、随所に文化として残っている雨乞い祈願なんかだって、全く必要なくなってしまう。
雨人間が一人いればそれですんでしまうのだから。
大体、「私雨女だからごめんね」という時の人間は、何故か少し誇らしげなのが解せない。
雨が降ることに対して「ああ、私が外に出たからだー」なんていうその自信の根拠は何だ。
彼らが暗にそのスーパーパワーをひけらかしているように感じるのは、私の狭量のなせる業か。
私には雨をふらすスーパーパワーがないから、ひがんでいるのだろうか。
いやいやそんな馬鹿な。
雨女の理屈で言うならば、私は「一瞬晴れ間がさす女」だ。
私が外に出ると、一瞬雨がやむ。
これだって立派なスーパーパワーではないか。
なんて考えても見るけれども、理屈で考えてみるとやっぱり自然現象は人智を超えたものである。
一介の人間風情が影響を及ぼせるほどの軽微なものではない。
だから、最近は雨人間だと自称する人間にたいしては、「雨運があるんだね」と暗に違うと諭すことにしている。
人間の身の丈というものを教えてあげることも親切である。
しかし。
これもやっぱり僻みだろうか?

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